うつの心を震わせろ〜成功への道標〜

人生について真剣に考えてみる メルカリショップにて著書「作麼生」を出品中です

そこから見える世界

一度でも死にたいと思ったことのある人と、一度も死にたいと思ったことのない人とでは、明らかに価値観が違う。

どちらが良いとか悪いとかいうことは無いが、そこにはけっして分かり合うことのできない、とてつもなく大きな溝があるように思う。

それは名作映画を観たことがあるかどうかよりも、もっと大きな溝で、それだけ衝撃のある感情が起こったかどうかの違いなのだ。

死にたいなんて思わずに死ねたらそれに越したことはないのかもしれないが、死にたいと思ったことがあるからといって、人生に失敗したわけじゃない。

死ぬよりも生きる方がよっぽど勇気が必要だと感じたことはけっして無駄にはならない。

その経験を得たことで、人間的に深みを増し、より生きていることに感謝できるようになる人もたくさんいるはずだ。

でも、まだそんな気持ちになれない、死にたいけど生きたいと思っている、宙ぶらりんな気持ちの人も少なからずいるだろう。

ただ、その人たちも、とにかく今この瞬間を必死に生きているんだ。

だったら結局は、自分の人生をどう楽しむかが重要で、より楽しんだ者が勝ちなのさ。

昨日を悔やんで今日何もせず明日に怯えるよりも、昨日は忘れて今日を楽しみ明日を迎えに行こうじゃないか。

罪を憎む者

自分は何も被害を受けていないのにも関わらず、過ちを犯した人を見ると、嬉々として責め立てるような人がいる。

このような罪を憎む心はあるが、自分の立場を理解していない人は、自分は正しいと思っているがゆえに余計に厄介だ。

そういう人たちには、過ちを許す度量の広さを持ってほしいと思う。

また、その人のいないところで、間違いを指摘している人もいるが、それはただの陰口だ。

この世を美しくしたいと思っているのに、自分自身がこの世の汚点となっているような愚か者にはなりたくないものだ。

過ちを犯さない人などいないのだから、人として尊重し合い、互いに正しい道を示し合って、共に成長していくのが理想の姿だろう。

智者の一失愚者の一得の言葉どおり、自分が絶対に正しく、相手が絶対に間違っているということはありえない。

誰かを知らないうちに傷つけるようなことがあってはならないし、誰かに無駄に傷つけられるようなこともあってはならないのだ。

相手だけでなく自分にも厳しさと思いやりを持って生きていきたい。

 

境界線

眠る瞬間。

夢の始まり。

満腹になった一口。

最後にした咳。

許される遅刻の時間。

そんなあやふやなものが多いこの世の中でも、やっばりその境界線のギリギリを知りたくなってしまう。

なぜなら、そこに人の善悪に対する感情のヒントがあるように思うからだ。

以前にも述べたが、この世に絶対的な善悪などはなく、あるのは真偽のみである。

しかし、間違いなく人はそれぞれ善悪のセンサーを持っていて、そこには様々な要素が入り込んでいるため、明確な境界線を持たない人が多い。

出来うる限り真偽によってその曖昧な部分の輪郭をはっきりさせることで、なぜそれを善いあるいは悪いと思ったのかが客観的にも分かるようになると思う。

つまり、今曖昧に善悪を押し付けているものを、きっちり正しいことと間違っていることに分けることによって、不公平を無くすことができると思うのだ。

もちろんあやふやなままでいいこともたくさんあるから、すべての事象を白黒はっきりつける必要はない。

感情すべてに理由をつけていたらロボットみたいになってしまう。

だから、自分の中で大きな感情や不思議な感情が芽生えたら、その時はじめてなぜそう思ったのかを考えればいいと思う。

この場合を善と捉えて、この場合は悪と捉えて、それ以外は気にしないということが正確にできるようになれば、人間として一本筋の通った人になっているだろう。

なぜなら、善悪はその人自身が何を大切にするかで、大きく変わってくるからだ。

さらに善悪を真偽にあてはめるため、あらゆる境界線を見極めた上で、慎重に真偽の判断を下しながら、自分の身に起こる一瞬一瞬の出来事を大切に感じて生きていければ、傑物になる。

どこからが正しくてどこからが間違いなのか、その境界線を知ろうと挑み続けることが、なにより大切なのではないだろうか。

 

ダイバー

僕は、暗い海を彷徨うダイバー。

海中には、僕を襲う巨大な鮫。

海面には、僕と空気を隔てる分厚い流氷。

僕は鮫に襲われながら海面を目指すけれど、流氷が邪魔でなかなか海面に上がれない。

ボンベの空気は減るばかり。

逃げて逃げて体力もどんどん失われて、やっと海面に出たと思ったら、今度は日差しが強すぎる。

結局また僕は、暗い海に戻って流氷の下に潜る。

鮫が襲ってこないことを祈りながら、僕は海中でじっとしていた。

眩しい海上にも暗い海中にも、僕の安心できる居場所はどこにも無かった。

だから、僕は残り少ないボンベを背負って、ただ深く、日差しも流氷も鮫も何も無い深い海底へと沈んでいくしかなかった。

一時は苦しいけれど、その先に安心があると信じて。

一寸先も見えない闇の中で、淡い光を夢見ながら、流れに身を任せつつ僕はそっと目を閉じて、最後の空気を吸い込んだ。

 

本を出版して1年が経ちました。

読んでくださった方々、誠にありがとうございました。

 

好きを貫け

自分がどんなに好きなものでも、嫌いな人もそれが好きだと知ると、なぜか途端に熱が冷めることがある。

嫌いな人が好きなものは、全て憎むべき対象に思えてくる。

もちろん、頭では嫌いな人と嫌いな人が好きなものとは何の関係も無いことは理解できるのだ。

それでもそんなふうに思ってしまうのは、嫌いな人と同じ価値観を持ちたくないという気持ちから生まれるものだろう。

でも、当然嫌いな人とだって価値観の重なる部分は少なからずあるだろう。

嫌いな人が好んでいるという理由だけで、自分の好きだったものや好きになれそうなものを嫌いになるなんて、もったいない。

そんなフィルターは捨てて、真っ新な状態で世界を見よう。

嫌いな人が増えれば増えるほど、世界がどんどん狭くなっていくのは良くない。

嫌いな人に価値観を左右されることが、最も悔しいことだから。

逆に、好きな人に合わせて、そんなに好きじゃないものを好きになろうとすることもあるかもしれない。

それも自分を偽ってしまうことだから、あまり良くない。

それを本当に好きになれればとても良いのだが、無理をすれば、結局どこかで崩れてしまう。

ただ、自分が無理をしていることに気づくのは意外と難しい。

だから、普段から自分がありのままでいられているか、自分の心に問いかけてほしい。

誰が何と言おうと、自分の心の思うままに、好きなものは好き、嫌いなものは嫌いだと言い続けたい。

もっと言えば、好きになるのも嫌いになるのも、その一要素だけで十分だ。

その全てが嫌いということはありえないし、全てが好きということもありえないのだから。

翼が生えたら

僕の背中に急に翼が生えたら、なんて妄想をたまにしてしまう。

世界中でただ一人、僕だけにしかできないことがあるなんて、とてもすごいことじゃないか。

そうなれば、僕は優雅にかつダイナミックに空を飛ぶよ。

みんなの眼差しを一身に受けて、僕は恥ずかしがることなく、堂々とベランダからそのままコンビニへと買い出しに行く。

バスケや野球でも異次元の活躍をして、きっと僕のために翼禁止ルールができるだろう。

なんて色々考えても、結局僕は、自分にしかできないことがあれば満足で、それが特別なことなら翼でも何でもいいのかもしれない。

けれど、本当の僕には翼も何もない。

それでも、僕のことを認めてくれる人が少なからずいて、その人たちの思いを無駄にしないためにも、僕は一歩ずつ進んで行くよ。

僕を特別な存在だと思ってくれる人が、僕を本当に特別な存在にしてくれる。

僕の心に勇気という名の翼を与えてくれる。

これってすごいことだよね。

本物の翼は分け与えることはできないけれど、心の翼は分かち合える。

お互いに尊重し合って、お互いを特別な人物にし合える関係をこれからも少しずつ増やしていきたい。

言いたいことを言うよ

普段思っているけど、なんとなく世の中がそれを言うのを許してくれないような空気感があって、なかなか言えないことが多い。

でも、あえて言おうと思う。

それが間違いなら、言葉でただしてもらえばいい。

言えないままモヤモヤして、そんな風に思う自分のことが嫌いになることの方が、よくないと思う。

自分だけがしんどいと思って何がいけないんだ。

たまには自分より不幸な人を見て、馬鹿にしちゃいけないけど、とりあえず安心してもいいよな。

そして、人を差別する人を、差別するからという理由だけで差別しちゃいけない。

時代は変わろうとしてる。

言いたいことがなかなか言えない時代だ。

思いが募るばかりで、ストレスが溜まることもある。

心で思ってるのと、口に出していうのとそんなに大きな違いがあるのかな。

歩く時も、運転する時も、生きる上でも、進路を変更するのが、最も難しく、最も危険だ。

真っ直ぐ進み続ける方が簡単なのだが、僕の道には障害物が多すぎて、なかなか真っ直ぐ進めない。

時には、壁も突き破るくらいの度胸と勢いが必要かもしれない。

勇気を持って時代に抗うことも、たまには必要なのだ。

共感して欲しいからと、相手の求めていることばかりを言うのはもうやめる。