うつの心を震わせろ〜成功への道標〜

人生について真剣に考えてみる

Unhapiness isn't an option.

幸せかどうかは自分が決めるという。

そうは言っても、やっぱり周りを気にしてしまう。

自分よりも遥かに少ない努力で、自分の理想すら軽々と超えていくように見える人たちがたくさんいる。

そんな人たちを見ると、

いったい今まで自分は何をしていたのだろう?

どこで間違ってしまったのか?

世の中不公平だ。

自分は運が悪かった。

なんて思うこともある。

努力は裏切らないが、才能によってその努力の膨らみ方が違う。

10頑張ったからといって、10の成果が得られるわけでは無く、そこに才能を掛けた分しか成果は得られない。

天才は頑張った分だけ成果を出すが、凡人はその6割出来れば良い方だ。

これじゃどうやったって、天才には追いつけない。

ならば、努力の数を増やせという。

無理をして努力の数を増やしても、長続きはしない。

次第に無理がきかなくなって、同じ土俵では戦えなくなる。

一度フェードアウトすると今度は、他人と比べるのをやめろという。

今まで散々、競い合わせて、比較してきたのに、何を今さらと思いながら、昨日の自分を超えることを目標に生きる。

成功と幸福はイコールではないし、失敗と不幸もイコールではない、なんて綺麗事を聞きながら、その通りだと自分にすり込ませる。

そして、当初思い描いていた幸せではないけれど、今の自分は幸せなんだと、暗闇に向かって呟く。

成功も幸福もハードルを下げれば誰でも掴める。

でも、誰でも簡単に手に入れられるものを人は欲しがらない。

ところが、みんなが持っているものはなぜか人は欲しくなる。

最初に幸せに手を伸ばした時は、自分だけが特別になりたくて、届かなかった時には周りが幸せを掴んだ人だらけなことに焦って、自分も掴んだふりをする。

自分の本心を偽って、自分を安売りすることは幸せなんだろうか?

どうせ偽るならば、こんなものは不幸ではないと跳ね除けよう。

人生の中では、良い日や最悪の日もあるだろう。

それでも、自分にとってこの程度のトラブルやアクシデントなど、そんなもの歯にネギが挟まったくらいのものだと跳ね返し、そして自分の信じる成功や幸福への道を思うがままに進めばいい。

僕には、不幸になるという選択肢は無い。

臥薪嘗胆

今あなたが幸せでいることが、あなたを支えてくれた人への恩返しであり、あなたを傷つけたひとへの復讐だと言う人がいる。

僕はどうしてもそうは思えない。

順序が逆だからだ。

恩返しや復讐の前に幸せが来ることなどない。

もし、恩返しや復讐の前に幸せを感じるならば、それは忘恩の徒であり壮士ではない。

報恩とは相手に自分を助けたことが間違いではなかったと証明することであり、復讐とは相手に自分にひどい仕打ちをしたことを後悔させることである。

そうは言っても、恩や恨みを忘れる人は多い。

日々、臥薪嘗胆していなければ、忘れてしまう。

忘れられれば、幸せだし楽だろう。

ただ、恩や恨みに執着したくないが、忘れるような人にはなりたくない。

「恨みは忘れ、恩は忘れない」と言う人もいるが、そんなことを言う人にはひどいことをする人ばかりが近寄ってきて、結局恨みに飲み込まれる。

人にはそれぞれキャパがある。

貸した金は忘れて、借りた金は忘れないという生き方では、破産するのが目に見えている。

だから、貸した金にも借りた金にも多くの利子をつけるのがいい。

上手に返済と取り立てを繰り返してこそ大きく成長でき、軌道に乗って安定期に入ったところでようやく幸せを実感できる。

感謝や苦労の伴わない幸せなど、けっして長続きはしないのだから。

国士無双

人は目標を立てる。

勉強したら良い学校に行って、そうしたら良い会社に入ってお金をたくさん稼いで、最後は大きな家で何不自由なく暮らす、という感じで。

挑戦には、いわゆるモチベーションが必要だ。

そんな見返りをイメージせずに行動を起こすことは難しい。

取らぬ狸の皮算用のおかげで狸を得られることもある。

だからこそ夢や希望が必要なのだ。

しかし、自分の足を前に進ませるための夢が、それが叶うのかという不安となって足を引っ張ることもある。

しかし、心配はいらない。

人は絶対にできないことに、人生をかけられない。

それでも、足がすくむようなら、こう自分を鼓舞する。

偉大な成功を収めるであろう、すごい自分がとる選択は、すべてその輝かしい未来へと続いている。

そして、万が一自分が間違っていたことに気づいたとしても、未来の自分が己の正しさを証明してくれるに違いない。

なぜなら、私こそが国士無双であり唯一無二だからだと。

型破り

自分が新人の時、上から嫌がらせを受けた。

だから、自分が上になった今、下の者に嫌がらせをする。

or

だから、自分が上になった今、下の者に嫌がらせをしない。

 

よくない慣習を伝統として継承させていくのか、自分の代で膿を出し切り、新たな伝統を作っていくのか。

世の中には無駄なものがたくさんある。

たいていが、「昔からやっているから」で済まされている。

大切なのはその慣習をする理由の有無である。

理由が無い、あるいは理由があっても理にかなっていないならば、やる必要は無く、廃止すべきだと思う。

だが、それまでその慣習に疑問を持たず、真摯に取り組んできた人たちを馬鹿にしてはならない。

その人たちと対話して、一緒に型を破っていくことで世の中や組織が成長する。

立場に関係無く、おかしいことはおかしいと声を上げ、またそういう声に耳を傾けられるような社会が理想だ。

型が破られる時は、型が腐ってきている時だ。

Fascinating

僕はどうも周りを気にし過ぎているようだ。

周りの目を気にするだけでなく、例えば電車の乗客、道の歩行者や車、お店の陳列など、自分の周りのものにセンサーを張り巡らしてしまう。

おかげで色々なことによく気がつくが、それが良い時と悪い時がある。

人のちょっとした気遣いに感謝することもあれば、相手も無意識のうちに出したような心無い態度に心を痛めることもある。

昔は鈍感な人が羨ましいとさえ思っていた。

でも今は、周りの小さな変化や機転に気付けることが本当に誇らしい。

何かしらの発見や感動が、毎日を刺激的で面白いものにする。

愛ではない、もっと熱い何か

街に出ると、感動の欠片に出会う。

無数の家やビル、電信柱に信号機、アスファルトや歩道のタイル。

それらの一つ一つすべてに人の手が関わっている。

そしてそこには、それを必要としている人、それを作った人、それを利用する人、さまざまな人の想いが込められている。

もちろんそれは、建造物だけに限った話ではない。

スーパーやコンビニなどにある商品、街を走る車やバイク、飲食店の料理、他にもありとあらゆるサービスにも同じことが言える。

過去からずっと、人類が紡いできた想いのカタチが今である。

そう考えると、今まで何気なく見ていた景色が、人間が、違って見えた。

宇宙誕生からのすべての生命、すべての物、すべての現象の先に、今は僕たちがいる。

そして、祖先から託されたものを、さらに後世に繋いでいく

啓蒙

井の中の蛙に広い海の存在を教えることは、本当に蛙のためなのか。

ただ教えた者の自己満足のような気がするし、そもそも蛙は海では生きられない。

井の中で満足して、その中で我が物顔で幸せに暮らして生涯をまっとうできたなら、そちらの方が良いと思うのだ。

それに啓蒙しようとする者は、一体どれほどの者だというのか。

大海の鯨ならば、わざわざ井の中を覗きはしないはずだ。

すべてのものには適材適所がある。

井の中で鯨は生きられないし、大海で蛙は生きられない。

誰からなんと言われようと、居心地の良さや直感を信じて、自分の居場所を探していく。

ずっと同じ場所にいる必要もないし、一度去ったところでも戻っていい。

自分と他人の幸せをなるべく守って生きていきたい。