うつの心を震わせろ〜成功への道標〜

人生について真剣に考えてみる メルカリショップにて著書「作麼生」を出品中です

僕だけなのかな

僕だけなのかな。

家の鏡で見る自分の姿と、外の鏡で見る自分の姿が全然違うように感じるのは。

日常の何気ない瞬間を、時々夢で見たことがあるように感じるのは。

好きな曲のリズムに合わせて歩いてしまうのは。

尊敬できる人に会ったことがないのは。

お金は好きだけど、お金を持ってる人はあまり好きじゃないのは。

本当の自分をさらけ出せる相手が誰もいないのは。

除け者にされるのは嫌だけど、特別な存在になりたいのは。

昔気になったあの子のことが、頭から離れないのは。

人の嫌な所ばかりが目につくのは。

自分がヒーローになる妄想を、いくつになってもやめられないのは。

自分に自信がないのは。

誰も愛せず、誰からも愛されないのではないかと不安になるのは。

自分が天才だっていう証明ができないことに、もどかしさを感じるのは。

嫌いな人に優しくしてしまうのは。

家を出てから天気予報を確認するのは。

棒人間すら上手に描けないのは。

嫌なことばかり思い出すのは。

とっさに感情を表に出せないのは。

昨日やろうと決めたことが、今日できないのは。

トイレから戻って、しばらくは水分を摂らないようにするのは。

自分の才能に惚れぼれするのは。

緊張するとお腹が鳴るのは。

美しい人と目を合わせられないのは。

馬鹿にされると苦しくなるのは。

自分にとって楽しいことが何なのかさえ分からないのは。

自分のことを理解してくれる人は。

僕だけかもしれないと怖くなるのは。

次こそは

一度失敗してしまうと、リベンジするには一度目よりもさらに大きな勇気が必要となる。

周りも、また同じ失敗をすればそれ見た事かと馬鹿にしたくてウズウズしてる。

そんな中でも、勇気を持ってチャレンジしていこうじゃないか。

前とは違う小さな変化に、新たな自分を見出すかもしれない。

自分らしさなんていうものは、日々移ろいゆくものだ。

ほんの少しのきっかけで、結果は大きく変わる。

多くの人は何度かやってダメだったら、もう二度としない。

そんな人たちが、僕たちの失敗の原因を彼らの型にはめて説明しようとする。

でも、失敗の原因は、人それぞれで、さらに複雑に絡み合っていることばかりだ。

全く同じ失敗なんてありえない。

失敗を失敗のまま終わらせた人たちの言うことに、耳を貸す必要はない。

僕たちは失敗を成功に導く術を知っている。

それは快感を求めることだ。

楽しい、嬉しい、満足などの正の感情を得ることを目標にすればいい。

難しいことは分からない。

みんなが何につまずき、何に悶え苦しんでいるのかは想像もつかない。

でも、みんなが幸せを願ってるのは分かってる。

じゃあ、幸せになるっていうのを成功にしちゃえばいいじゃないか。

今不幸の中にいる人は、全部運のせいにしちゃえばいい。

自分を責めなくていい。

今度こそ幸せになる。

次こそは、絶対に。

あの日

先日、五年ほど前に書いた日記を読み返していたら、当時の辛い気持ちを綴っていたものがあった。

こんな気持ちになっても、なんとか生きていけるということを示したいので、今日、ブログに載せようと思う。

 

 

僕には生まれた日の記憶がある。

ベッドで寝ている母の隣に置かれた。

母は微笑んだ。

僕も笑った。

その時の僕には怖いものなど無かった。

それから二十数年が経つ。

現在は不安と恐怖に押し潰されそうになりながら、死を切望している。

これまで生きてきた足跡である記憶を、すべて消し去りたいとさえ思っている。

何も知らなかったあの日より、成長しているはずなのに。

 

ごめんな、君を幸せにしてやれずに。

これでも精一杯頑張って生きてきたつもりだったんだ。

親や自分自身の期待に応えたいと思って生きてきたんだ。

結局僕は何一つ成し遂げることもできず、誇れるものも無く、まるで最初から何も無かったかのようにして、君に謝ることしかできない。

本当に申し訳ない。

その日を君の幸せのピークにしてしまった。

スタートラインであるはずのその日を。

さようなら。

その日の思い出を噛み締めて、僕は逝くよ。

生きれば生きるほど辛いから。

 

 

僕はこれを書いた日に、少し生まれ変わったのかもしれない。

また同じような気持ちになっても、何度でも生まれ変わって、新しい自分を描いていきたい。

たとえそれが、とてもしんどくて、まったく思い通りにいかない道だとしても。

今日もこうして、嫌なことを思い出さないようにしながら、良いことを思い描いて、懸命に生きているよ。

今日は、明日は、明後日は、来週は、来月は、来年は、良いことがありますように。

幸せを夢見ていると、いつの間にか幸せの中にいて、気付くと幸せを夢見ていない日々になっていたらいいな。

忘れたいけど忘れたくない

記憶というのは、なかなか厄介なものだ。

記憶力がなければ未来を目指すことなどないので、もちろん行動不能になるが、記憶力がありすぎれば過去にとらわれすぎてしまい、やはり行動不能となる。

要するに、記憶力はバランスが大事なのだ。

ほどよく覚えてほどよく忘れるのがよい。

とはいえ、忘れたい記憶ほど忘れられず、覚えておきたい記憶ほど覚えられないのが、なんとも不思議だ。

だからこそ、過去にとらわれすぎて動けなくなる人もいるのだろう。

未来へ進みたいと思うからこそ、動けない自分に焦ったり嫌気がさしてしまう。

ならばいっそのこと、一度歩みを止めてもいいのではないだろうか。

未来を追わず、過去を振り返らず、現在だけに集中できるように、今この瞬間に止まってみる時間が必要なのかもしれない。

何もしたくなければ何もしなくていい。

とにかく、好きなこと、やりたいことだけをして、今を充実させよう。

誰の役にも立っていないような、ただただ生きる時間は他者からみれば虚しい時間かもしれないが、その時間が充電期間となり、これから先の人生の活動の元となる。

その期間を終えればきっと、嫌な過去も不安な未来もその充電期間さえも、忘れたいけど忘れたくないあなたの大切な人生の一部となって色を添えるはずだ。

あけましておめでとうございます(第200回記念)

他人が自分をどう思っているのかなんて、どうでもいいと言いながら、ホントはものすごく気にしているそんな君へ。

相手の本音を知りたくて、でも怖くて聞けないそんな君へ。

幸せは自分で決めると言い聞かせながら、他人の羨む幸せを求めるそんな君へ。

目立ちたくないと思いつつ、他人とは違うと叫びたいそんな君へ。

自分にも何か大事を成せるのではないかと淡い期待を抱きながら、必死で妄想を霧散させようとしているそんな君へ。

心の中で本音を爆発させながら、愛想笑いでそれを悟らせまいとしている君へ。

自分は何もしていないような気がして、怖くて怖くて夜も眠れないそんな君へ。

大丈夫。

人を無視する者に祝福はなく、大望を抱かぬ者に栄光はないのだから。

今、君が何も出来ず鬱屈し、もだえているのなら、きっと君には何かが出来るはずなのだ。

君自身はまだ気付いていないかもしれないが、心が落ち着かないのは、君の本能が「まだまだこんなもんじゃない」と体の底から叫んでいるからだ。

さあ、うつの心を震わせろ!

贖罪

人間誰しも過ちの一つや二つあるだろう。

しかし、その過ちを、己という作品のキズのままにしてしまう者と、そのキズすらも己の一部として受け入れる者とがいる。

もちろん過ちの大小もあるだろうが、その違いは何なのだろうか。

一度過ちを犯してしまえば、まるで自身が汚れたかのように感じ、その汚れを拭い去ることは容易ではない。

自分を許せるくらい後悔し、他人から許されるくらい反省しなければならないだろう。

そして、何度でも新たな自分へと生まれ変わらねばならない。

それでも、自分は許しても他人が許さない、あるいは他人が許しても自分を許せない時もあるかもしれない。

そんなもどかしい状況で大切なのは、自分のこれまで積んできた功徳と本当に許しを請うべき相手を見つめ直すことだ。

徳はいくら積んでも積みすぎるということはないが、ある程度積んでいれば自信となる。

また、知らず知らずのうちに本当に許しを請うべき相手を見誤っていたり、増やしすぎていたりすれば、それが重荷になる。

人間は脆いのだから、生きていれば必ずキズがつく。

結局は、どれだけ自分を生まれ変わらせられるか次第とも言える。

人間の身体は脱皮することはないが、心は脱皮を繰り返し、より強い心へと成長させていくのだ。

これまで人として生まれた者で、善のみを行った者はもちろんいないし、悪のみを行った者もいない。

今年もあと少しだ。

この機会にこれまでの己の行いを振り返ろうと思う。

 

最後に、今年は昔からの本を出版したいという夢が叶えることができました。

これも読者の皆様のおかげです。

本当にありがとうございました。

どうぞ良いお年をお迎えください。

来年もよろしくお願いいたします。

老害ってなんだ?

世の中には少なからず迷惑な老人もいることだろう。

だからといって、何でもかんでも老害という言葉で片付けるのはいかがなものか。

やはり、年齢を重ねている分だけ、年配の方にはある程度の敬意をはらうべきではないだろうか。

老害という言葉は間違いなく、年配の方を攻撃する言葉である。

そして、それを使う人たちは、そんな攻撃をしなければならないほどの被害を受けたのだろうか。

また、そんな被害を受けたとしても、適切な言葉による対応をすべきであって、老害などという抽象的で一方的な言葉は間違っているのではないだろうか。

老害などという言葉が蔓延ると、年配の方は正しい主張であっても、言うことを躊躇うようになるかもしれない。

そういう汚い言葉が流行るのは、美しくない。

全ての世代の人が、お互いに気持ち良く生きていける世の中を目指してほしいと切に願う。