自分と同じような死にたい人と繋がりたいと言うと、どうして死にたいのに人と繋がりたいのかと思う人もいるらしい。
だが、そういう人たちは、想像力や思いやりが欠如している。
何の理由もなく死にたい人などいないのだから、当然死にたい人にはそれ相応の理由がある。
そして、その理由には必ず人が関わっている。
ということは、逆に言うと、こうだったら生きられるというものも存在するはずなのである。
つまり、死にたい人でも、死ぬ前に宝くじを買うように、最期に望みを繋ぐように誰か自分を理解してくれる人を求めることも決しておかしいことではない。
だから、死にたい人と繋がりたいと言っているからといって、その人は本当は死ぬ気がないと決めるのは愚かだ。
人は生きるために生まれてきたのであり、その本質には当然「生きたい」という強い思いがあるはずだ。
ところが、さまざまな不運な出来事によって、その本能にまさる理性が働いて「死にたい」に変わる。
死にたい人に生きる活力を与えられるほど、僕には力が無い。
その人に寄り添って安心感を与えられるかどうかだって、分からない。
僕自身、生きる意味を見失ったり、死にたくなることもある。
でも、死にたくなるほど生きる意味を真剣に考えている人との出会いが、互いの生きる意味や希望になるなら、それは素晴らしいことじゃないか。
自分の人生を本気で考えている人となら、共に理解し合い、共に尊敬できると思うのだ。
人との出会いが運命を変える。
僕も本気で運命を変えたい。